生きづらさって考えた時



わたしが生きづらさを考えたとき、そこのキーワードとして「自由」「利益」「経済」そして、「新自由主義」が出てきます。

昔々日本は村社会で、村で成長との時代、この時に孤独や核家族、貧困など今と比べたらあったのだろうか?と考えました。

(今いきなりなったらそれまたしんどいのでその観点は除きます)

日本は高度経済成長を機に村社会から先進国へと成長し、資本主義社会へと舵を切ったはずです。ここでのポイントは、

経済成長には、市場原理、つまりは経済的損益が関係してきます。

みんなで分け合うとか、支え合うとか、無償提供というのとは遠くなってしまうのです。

もっと明確にいうと、経済の利益至上主義が強調され、人々は競争の中で自らを犠牲にすることが求められます。よく、「社会に役に立つ大人に」と、市場価値がないものは利益がない、価値がないと植え付けられていきます。これをいわゆる、新自由主義というと私は考えています。

この状況により、多くの人が、理想と現実の狭間で苦しみ、実生活の厳しさや心の負担を感じ、生きづらさが広がっていくとのではないでしょうか。

新自由主義は市場原理主義を基盤とし、企業の利益最大化が追求されます。

そのため、個人の生きる環境や社会的な支えが不足してしまい、生きづらさを抱える人々が増えていく傾向があります。この矛盾が、経済的な成功と個人の幸福感の乖離を招いていると言えるでしょう。

特に若者層は、新自由主義の影響を強く受けています。まず生まれた時点で社会が新自由主義。そこに、リーマンショック、東日本大震災、増税、少子化と将来の不安や経済的プレッシャーが彼らの生きづらさを増長させています。その中での個別最適な学びという乖離した教育方針。何が正解で何が最適なのかは誰にも見当がつかない社会。それが、今だと私は思います。

現在も多様性という言葉は先行する中、教育やキャリアにおいても競争が激しく、利益追求が止まりません。格差が生じるばかりでもあります。これらが、個々の人間関係に影響を与え、社会全体でのつながりが希薄化していると私は捉えています。単なる顔見知りではない、知らないから危険、めんどくさいではすまされないのです。

この状況を打破するためには、新自由主義の限界を認識し、否定する必要があると考えます。

そして、社会全体での公のサポート体制の再整備が必要です。そのためにも「パブリック」の果たす役割は大きく、欧米諸国並みの教育環境も早期に整えなければならないはずです。

教育は「自由の相互承認」を追求する武装であると再確認すべき時がきており、真の民主主義社会を取り戻す鍵でもあるはずです。

利益追求だけでなく、人間性や共感の重要性を再評価し、生きづらさに対処できる社会を築く努力が一人一人に求められています。

そのやる気スイッチを押す1人にもなりたいな…と感じる今日この頃でした。


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